ファーム決まった

タイトルの通り。よかったよかった。

意外とメルボルンから1時間半という近さで拍子抜け。時給制だし優良企業っぽくて一安心。

最初に連絡が来た時にその担当者の名前が今の仕事を紹介してくれたマイメンと同じ名前だったから怪しいなーとは思ったんだ。十年来の付き合いの親友と同じ名前のオージーに二個目の仕事もらうっておかしいでしょ。やはり常日頃反省をせず努力もせずただひたすらに祖先と友人と家族の幸せを願い欲を殺して「只管打坐」と思いながら暮らしていると自然と良いことも起こるもんですね。もちろん悪いこともありますが一秒前は過去ですからね。良いことも悪いことも天気みたいなものなので起これば過ぎていくものです。嫌なことが起こっても引きずらず、良いことが起こっても浮かれない。自分は大自然の一部なのだと理解すれば分かり合えない種や生きづらい環境からは離れて自分が一番のびのびと生きられる場所に行くことが紛れもなく正しい生存戦略であると感じられます。

愛している人や飼っていたペットが亡くなったとき、その瞬間からまるで世界が色を変えたように、世界を満たす空気の成分が少し変わったような、空気中の悲しみの割合が少し増えたような、そんな気がしたりしませんか?それは確かにそうですし、超悲しいしマジで「さよならだけが人生かよ」みたいなことをつい考えてしまいがちですが、逆にそこから反転させて考えてみると、今この世界だって自分にとって十分に良い空気が満たされていると、そう考えられませんか?愛している人の存在が空気中に充満していると、そう考えられませんか。そしてそれは亡くなった人や動物たちの残した愛も混ざっていて、なんてことをシャワーを浴びながら考えたりする今日この頃です。もしこれを見ているあなたが誰からも愛されていないと、もしくはそんなポジティブに考えられないくらい悲しみが自分を満たしていると思うのであれば、ぜひご一報ください。無料でオーストラリアにご招待いたします。ちょっと気を抜くと死んでしまうほどの大自然に行くと自然と「生きたい」という気持ちが湧くもんですよ。あと日本でもバイクで高速を飛ばしてるときとか湧きます。

自分が十代後半から二十代前半にかけてどうしてあんなにも鬱々としていたのかと思うと、結局は意識できている世界の狭さと欲のコントロールの下手さ、あと変な向上心だったのかな、と。「向上心のないものはバカだ」なんて言葉を座右の銘のように思っていましたが、あんな新宿の一等地の大地主の家に生まれたボンボンの言うことなんか真に受けちゃダメですよ。生まれがちげーもんな。そもそも夏目漱石の小説は文体がクソ真面目すぎて面白くないんだ。何回も挑戦して辞めてるっちゅーの。太宰治を見習えよ。数多の共感と嘲笑を生み出す生粋のエンターテイナーだぞ。畜犬談だぞ!

「やらなきゃ」とか「こうした方がいい!」なんて捨てて「こっちの方が楽しそうだな〜」って生きればいいと思うし、そうしてれば自然と必要なものは身につくと思うんですよね。まあ日本、あるいはあの東京のとんでもない数の人とその視線の中にいるとポジティブに考えるのが変なことで苦労こそ美徳、と思ってしまうのもよくわかる。だから俺は二度と東京及びその近郊では暮らしたくない。オーストラリアのあとはニュージーランドかイギリスかカナダ、またはその他の国に行きたい。多種多様多国籍の人たちと接するの、なんだかんだ楽しいのかもしれない。同僚のイギリス人は腕にめっちゃタトゥー入ってるんだけどよく見たらFFのチョコボサボテンダーが紛れててすごいよかった。メルボルンは春の気配を感じます。